緊張感
2008年11月
Kさんと筑波山へ登った。

優しい山と言われて、なめてかかったら大変な山だった。僕は、根本的にアウトドア派ではないのである。アウトドアに憧れているけれど…途中で「弁慶の七戻り」という岩に遭遇した。ここには、両側の二つの岩に2点だけかろうじて留まっている、今にも崩れそうな岩があった。

弁慶ほどの豪傑でも、この今にも崩れ落ちそうな岩をくぐろうとして、7回も行ったり来たりして躊躇したそうだ。現実世界にもこのように、「賭けにでようかな」、「どうしようかな」なんてこともあるよね。

もしもだよ、6回躊躇して7回目が大丈夫だなんて思って崩れ落ちてきたらどうするんだろう?まるで、ルシアンルーレットのように、どきどきするなあ。
弁慶でも7回も戻ったのだから、蚤の心臓の僕などは、どれだけビビるかと思ったけど、そうでもなかった。でも、下から見上げた感じがすごかったよ。(真ん中の写真)これが、何百年も弁慶の時代から落ちていないとわかっているから安心できるけど、初めてみた弁慶もビビったんだろうね。
デザインでは、このアンバランスを緊張感なんて言ったりもする。僕は、どうしてもこのアンバランスなものに惹かれてしまうのだな。人間の魅力もそうだけど…
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投稿者 hidetoshi shinohara : 23:25
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弱さはつねに過激である
2008年11月
スチール製のフォンタナの絵を見つけた。

フォンタナといえば、白いキョンバスをナイフ切り裂いた、究極のミニマムアートが有名だ。ナイフという、一歩間違えば人の命さえ奪ってしまう凶器に、切り裂かれた白いキャンバスはどこか繊細で脆さを感じてしまう。ナイフを振りかざす時に、スッという音が聞こえてくるようでもある。
それに較べ、この絵は鉄板を鋼鉄のナイフで切り裂いた痛々しい絵である。本当は、ナイフという凶器を美化した白いキャンバスよりも、この鉄板を切り裂いた表現の方が、人間の本来持っている原始の感覚をうまく表しているのではないだろう?
この絵と対峙した時、顔で笑っていても自分の内面を見透かされたような感覚におそわれた。「人のためだ、世のためだ」といっていながら、実はジェラシーで、はらわたが煮えくり返りそうな時がある。
フォンタナが目指したのは、原初の人間がもつ不可解な感覚である。何か自分では理解不可能なことに直面した時、音楽的な感覚、リズムの感覚、それらの条件を発展させていくことが目的だそうである。
現代社会においても頭では分かっているけど、心の底からメラメラゴーーーー、と何かに突き動かされることが誰にでもあるに違いない。理性ではなんとか押さえ込もうとしても、どうにもならない。それが太古から持っている人間の感覚なのであろうか。
この絵の切り裂かれた部分は、人間の心臓をえぐり出そうとでもしているはずなのに、どこか感情がリズムとハーモニーを奏でているとでもいいたげな表情だった。僕自身、思慮深い大人のつもりであったが、実は原始の人々となんら変わらない感覚も持ち合わせいる自分に正直驚いた。松岡正剛の「弱さはつねに過激である」という言葉がぴったりである。
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投稿者 hidetoshi shinohara : 22:27
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